HPの更新をサボっていたら,この間に国民投票法が成立し,教育基本法が改悪され,参議院選挙の自民党大敗があった。それでも安倍首相は続投に固執し,内閣を改造して8月に第2次安倍内閣が発足。ところが,9月臨時国会における所信表明直後,突然に辞意を表明して政権放棄。その後,茶番劇みたいな自民党総裁選を経て福田内閣が発足した。
政治の世界は,一寸先は闇と言われるけれども,本当にそういう感じだ。しかし,私はこの経緯を見ていて別の感想を持った。それは政治家の言葉の軽さ,と言うか言葉の不実さである。今に始まったことではないが,それにしてもこんなに政治家は本当のことを言わず,自分の言葉に責任を持たなくて良いものなのか。
安倍前首相は,臨時国会の所信表明の中で,「全身全霊をかけて、内閣総理大臣の職責を果たしていく」などと大見得を切った,その翌々日に突然の辞意表明である。「全身全霊をかけて」という大仰な言葉は全くのそら言でしかなかったのだ。
突然の辞意表明も,原因が病気だったのなら,もはや病気で体力が持たないので辞めると正直に言うのが筋であろう。そうすれば国民も納得したかも知れない。難しいことではない。ただありのままを正直に述べるだけのことである。それが国民に対する説明責任を果たすことである。その本当の理由(もっとも病気だけが辞職の理由かは定かでない)を言わないで,イラク特措法延長のために適切な人と交替したほうがいいとか,小沢民主党党首に会談を断られたからだとかの虚偽の釈明に終始した。
福田総裁が決まった翌日,安倍氏は病院から出てきて釈明の記者会見を行った。病気のことを何故言わなかったのかと質問されて,一国の首相が病気のことは言うものではないと思ったと答えたという。こんどは明らかな詭弁である。一国の首相が病気を言わないことは,その首相が職を継続する場合には,政治的配慮としてあり得るかも知れない。だが,一国の首相を途中で辞めることを決意した人がその原因となった病気を言わない理由などはおよそ考えられない。国民に対する誠実さがあれば,正直に話す以外の選択はあり得ないであろう。
かって,安倍前首相は,従軍慰安婦について旧日本軍が強制的に連行した証拠はないと国会で述べ,内外から厳しい批判を浴びた。2007年4月,日本の首相として初訪米しブッシュ大統領と会談した際に,自分の発言の真意が正しく伝わっていないとして,もと慰安婦の方々への謝罪の言葉を述べ,ブッシュもこれを了解したと報道された。
何故ブッシュに釈明し,謝罪の言葉を語らなければならないのか。それくらいなら,もと慰安婦の方々に対し直接謝罪すべきであるし,日本の国会においても当然自らの発言を訂正ないし釈明すべきであろうが,そこは頬かむりをしたままである。二枚舌を使って何の呵責を感じないのである。
アメリカのメディアも,謝罪する相手を間違っていることを揶揄して,「ブッシュは(問題の)女性ではない」と報道した。
安倍前首相が特別なのではない。自民党議員の虚言はあげればきりがないほど連日メディアで報道されている。
自民党は「教育の再生」を掲げるが,それ以前にやるべきことは自民党の皆さんが自らの言葉に真実と誠実を取り戻すことであろう。国民に対して嘘は言わない。それだけでも実行して子どもたちに範を垂れれば,道徳教育などは要らないのである。
2007年09月30日
政治家の言葉の不実さ
posted by kawanaka at 23:42| 憲法エッセイ
2007年03月26日
国民投票法案の危険なカラクリ(その2)
<もの足りない公聴会>
去る3月22日衆議院で国民投票法案に関する公聴会が開かれた。私は翌日に,その模様を「衆議院インターネット中継」のライブラリービデオをダウンロードして観たが,何かもう一つ釈然としなかった。この国民投票法案の危険性について私がもっとも危惧するところが十分に議論されなかったからである。
<国民投票運動の自由性と公平性>
発議された憲法改正案に対する賛成,あるいは反対の国民投票運動について最も重要なのは,自由性と公平性の確保だと思う。
前者は言うまでもなく規制を最小限に抑えて,自由な運動を保障しなければならないという要請である。自民党案が,500万人もいる国家公務員と地方公務員について,その「地位を利用した」投票運動を規制しているのは,大きな問題である。「地位利用」などの要件は,捜査機関によって容易に拡大解釈され,公務員であることを知らせて国民に働きかけを行えばそれだけで地位利用になるなどとして検挙されるかも知れないのである。
後者は,発議された憲法改正案に対し賛成の立場,反対の立場がありうるが,その双方の運動が公平に扱われ,平等が保障されるべきであるという要請である。自民党案は,テレビ・ラジオの無料放送の時間を各政党の議席数に応じて割り振るなどを定めていたが,これでは改憲反対派にあまりにも不公平だという国民の批判に押されて,賛成政党,反対政党双方に同じ時間を保障することに修正した。
<有料政治広告は禁止すべきである>
さて,問題はテレビ,ラジオを使って賛成,反対の広告を流す有料放送(以下では,CM放送という)である。自民党案は,これについて投票日の1週間前から禁止としていたが,修正案ではこれを2週間に延ばした。それではその期間CM放送を禁止する理由は何だろうか。
それは,繰り返し放送されるCM放送は国民の深層心理に作用し,投票行動に大きな情緒的影響を与えることが考えられるが,賛成派と反対派との資金力に大きな差があれば,CM放送を流せる回数,時間にも自ずから大きな差が出てくる。その差をそのままにして投票日直前までずれ込んでいくのでは,投票運動の公平性・平等性に反するから,投票日前2週間は国民に訴える手段・方法を賛成派,反対派双方に平等にして,国民に冷静に判断する機会を与えようということにあるのであろう。
しかしながら,投票日前の2週間だけCM放送を禁止すれば,公平性・平等性が確保されるというのは大いなる欺瞞である。テレビなどの影響力,伝幡力の大きさは,よく言われる「納豆ダイエット騒動」に象徴されるように想像を絶するものがある。CM放送ももちろん同じである。
憲法改正が国会で発議されてから,たとえば,「憲法を改正して国際貢献をしよう」,「美しい国をつくるために憲法改正が必要だ」などのCMが,どのチャンネルでも,何十日も,朝昼晩とじゃんじゃん流されたら,そんな気になってしまう国民は少なからずいるであろう。有名タレントやアイドルを使ってのCMを考えると,その影響力は甚大であり,決定的といっても過言ではない。投票日の2週間前を禁止しても,その前の洪水のようなCM放送ですでに決まってしまっているであろう。
運動団体にそんなに大量にCM放送を流せる資金力があるか,と言う現実的な議論をすれば,いまの改憲派(憲法9条を改訂して自衛軍を持ち,海外派兵も可能にするという改憲派)には財界がついているのだから,何百億円であろうと何千億円であろうと実施が可能である。これに対し,改憲反対派にはそれだけの資金が逆立ちしても出てこないのは周知のことであり,経済力資金力の差は歴然としている。だから,CM放送を規制しなければ,改憲賛成派はその資金力にものを言わせてCM放送をじゃんじゃん流して,国民の意識を変え(洗脳し),改憲を実現してしまう可能性が大である。これではカネで憲法を買うようなものである。そういうことを可能にする自民党案の実に危険なカラクリであるが,一国の憲法がカネで変えられるようなことは絶対に許してはならないと思う。それはいまを生きる私たちが後生に対して負うせめてもの責任である。
<イタリアはCM放送を禁止している>
こう言えば,しかし表現の自由を規制してはいいのかと言う反論がある。私は,表現そのものを規制するのではなく,表現の手段を憲法改正国民投票運動の公平性・平等性の確保という,より高位な価値のために規制するのであるから,問題はないと考える。
現に外国でも,たとえばイタリアでは,国民投票運動における有料政治広告は全国放送局においては禁止されており,各政治主体がメディアに平等にアクセスすることを通じて国民の選択の自由を保障すべきとの原則が国民的コンセンサスになっている,とのことである(自由法曹団イタリア調査団報告)。
それでも表現の自由との関連で有料のCM放送を禁止すべきでないというのであれば,禁止の代わりに有料のCM放送と同じ時間だけ相手陣営に無料の広告を保障するような制度設計をすべきである。それが経済的に出来ないなら,やはり禁止しかない。
posted by kawanaka at 04:12| 憲法エッセイ
2007年02月20日
国民投票法案の危険なカラクリ(その1)
日本国憲法は,今年の5月3日で施行60周年となる。そういう意味で,今年の憲法記念日は特別の意義を持つが,なんと自民党はこの日までに改憲手続き法案=国民投票法案を成立させたいと公言している。安倍首相が,自分の内閣時代に憲法を変えたいという意向を示しているから,それに間に合うように制定を急いでいるようだ。憲法施行60周年の記念すべき年を改憲への第一歩とするというのだから,ふざけた話である。
さて,自民党が制定を急いでいる国民投票法案だが,投票の方法,過半数の決め方,広報の期間・方法,運動の規制などどれを取っても問題が多い。
まず,憲法は,憲法改正の要件として,各議院の総議員の3分の2以上の賛成で発議し,国民の過半数の賛成による承認を必要とすると定めているが,国民の過半数の要件を定めていないから,まずそれをどう規定するかが問題となる。
国民の過半数について基準の高い方から順に並べてみると,
(1)国民総人口の過半数
(2)有権者総数の過半数
(3)投票総数の過半数(無効票と棄権票は賛成ではないとして扱う)
(4)有効投票数の過半数(無効票と棄権票は無視)
となるが,自民党案では最も低い(4)案を採用している。
憲法が,最終的に国民の過半数による承認を求めている趣旨を考えれば,憲法改正に賛成の投票をした人がどれだけいたかをカウントすべきであるから,本来投票に行った人も行かない人も含めてその過半数を取得しなければおかしいので,(2)であるべきである。少なくとも,投票に行った人の過半数を取得しなければならないとすべきである。
さらに,自民党の(4)案だと,投票率が50パーセントだった場合,無効票が20パーセントと仮定すると,全有権者の20パーセント余の賛成で改憲案は承認されてしまう結果となる(50×0.8÷2=20)。投票率が60パーセントの場合でも24パーセント余で改憲案は承認されてしまう。
つまり,有権者の80パーセント,あるいは76パーセントの人々が「憲法を変えることに賛成しない」結果が出ているにもかかわらず,国民の過半数の賛成が擬制され,改憲されてしまうのである。
憲法という国の政治のあり方の根本を定める法律が,こんな少数の国民の賛成で易々と変えられるというのは,本来あってはならないことである。
それで諸外国の例では,最低投票率や最低得票率を定め,これを上回らなければ国民投票は不成立,あるいは無効としている。イギリスやデンマークでは,投票総数の過半数で,かつ全有権者の40パーセントの賛成を得なければならないと定めているとのことである。つまり,投票率が50パーセントとすれば,投票総数の過半数をクリアすればいいのではなくて,有権者の40パーセントの要件をクリアしなければならないので,投票総数の80パーセントの賛成を得なければならないのである。
我が国でもこのような最低投票率や最低得票率を絶対に定めなければならないと思うし,換言すればこのような規定のない国民投票法案は決して制定させてはならない。
さて,自民党が制定を急いでいる国民投票法案だが,投票の方法,過半数の決め方,広報の期間・方法,運動の規制などどれを取っても問題が多い。
まず,憲法は,憲法改正の要件として,各議院の総議員の3分の2以上の賛成で発議し,国民の過半数の賛成による承認を必要とすると定めているが,国民の過半数の要件を定めていないから,まずそれをどう規定するかが問題となる。
国民の過半数について基準の高い方から順に並べてみると,
(1)国民総人口の過半数
(2)有権者総数の過半数
(3)投票総数の過半数(無効票と棄権票は賛成ではないとして扱う)
(4)有効投票数の過半数(無効票と棄権票は無視)
となるが,自民党案では最も低い(4)案を採用している。
憲法が,最終的に国民の過半数による承認を求めている趣旨を考えれば,憲法改正に賛成の投票をした人がどれだけいたかをカウントすべきであるから,本来投票に行った人も行かない人も含めてその過半数を取得しなければおかしいので,(2)であるべきである。少なくとも,投票に行った人の過半数を取得しなければならないとすべきである。
さらに,自民党の(4)案だと,投票率が50パーセントだった場合,無効票が20パーセントと仮定すると,全有権者の20パーセント余の賛成で改憲案は承認されてしまう結果となる(50×0.8÷2=20)。投票率が60パーセントの場合でも24パーセント余で改憲案は承認されてしまう。
つまり,有権者の80パーセント,あるいは76パーセントの人々が「憲法を変えることに賛成しない」結果が出ているにもかかわらず,国民の過半数の賛成が擬制され,改憲されてしまうのである。
憲法という国の政治のあり方の根本を定める法律が,こんな少数の国民の賛成で易々と変えられるというのは,本来あってはならないことである。
それで諸外国の例では,最低投票率や最低得票率を定め,これを上回らなければ国民投票は不成立,あるいは無効としている。イギリスやデンマークでは,投票総数の過半数で,かつ全有権者の40パーセントの賛成を得なければならないと定めているとのことである。つまり,投票率が50パーセントとすれば,投票総数の過半数をクリアすればいいのではなくて,有権者の40パーセントの要件をクリアしなければならないので,投票総数の80パーセントの賛成を得なければならないのである。
我が国でもこのような最低投票率や最低得票率を絶対に定めなければならないと思うし,換言すればこのような規定のない国民投票法案は決して制定させてはならない。
posted by kawanaka at 10:06| 憲法エッセイ





